世間を驚愕させた「三菱銀行人質事件」
その事件の主犯であった梅川昭美は最後に自らの死で終わりを告げました。
当時はかなり注目を浴びた出来事だったようです。
そんな梅川昭美ですが、どのような生い立ちだったのでしょうか?
これだけの事件を起こしたので特にその過去が気になりますね。
また事件を起こした動機も母親絡みだったのでしょうか?
梅川昭美は当時、かなり母親思いだったようです。
今回は梅川昭美の生い立ちから母親の周辺について調べて見ました。
梅川昭美の生い立ちが悲惨過ぎ!
梅川昭美の生い立ちについて簡単にまとめてみました。
- 名前:梅川昭美
- 年齢:30歳
- 生年月日:1948年3月1日
- 出生地:広島県大竹市
生い立ち
- 46歳の父親と42歳の母親のもとで生まれた
- 小学5年生の時に両親が離婚
- 結果的に母親の元を追い一緒に暮らす
- 働き詰めの母を見て、放任状態になる
- 中学時代は非行に走るように
- 高校進学をするもバイクを盗難し、退学させられる
- 両親は再び復縁するも梅川昭美自ら家を出て一人暮らし
- 生活費のために強盗を犯し、家人も刺して金品を奪う
- 少年院に送られ、院を出た後は真面目に働くようになる
梅川昭美は自分の家庭環境、特に「貧しかった」ことを恨んでいました。
「なぜ自分だけこんな思いをしないといけないのか?」という思いから犯行をしたそうです。
入れ墨を入れるような人間でしたが、20歳から7年間交際していた女性もいました。
バーで働いていた時でも挨拶が出来る人であり、意外と几帳面な一面があったのかもしれませんね。
また自分が最後に撃たれる少し前には、友人や知人など、お世話になった人へ電話もしていました。
感謝の思いを伝えたかったのもありますが、自分の死を感じていたのかもしれません。
梅川昭美と母親の関係
生い立ちから分かる通り、梅川昭美は母親を尊敬していました。
一時は母親にすら手を上げたこともありましたが、実際は大事に思っていました。
実際に事件を起こす前の誕生日前に、「俺もおふくろを心配させたらあかん歳や」と話していました。
また、事件の途中で、これ以上被害を出さないために母親が梅川昭美に手紙を送りました。
その手紙の影響があってか、人質の女性に服を着ることを許したとされています。
犯罪を犯していても、母親の存在が大きかったことが伺えます。
三菱銀行人質事件のまとめ
- 梅川昭美が大阪府にある三菱銀行で銀行強盗を計画
- 人質は「行員・客」を含め、計30人以上
- 被害者で亡くなったのは4人(銀行行員1人・支店長1人・警官2人)
- およそ3日間の間、人質が銀行内にいる状況に
- 事件は大阪警察本部警備部による梅川昭美の射殺で終息
この”警察が犯人を撃って事件を解決した”事例はあまりないそうです。
これまでには「瀬戸内シージャック事件」「長崎バスジャック事件」と合わせて3件のみとのこと。
被害者について
実際に被害を受けたのは、先程挙げた4人の人物。
また死亡こそしていませんが、重症を負った被害者も何人か存在しています。
特に、肩を撃たれ重症を負った男性(竹内貞夫さん)はあまりにも過酷だったでしょう。
命こそ無事ではありましたが、当時は死んだふりをしました。
それを見た梅川昭美はナイフを別の行員に渡し、トドメを命令します。
しかしあえて「既に死んでいる」と言い、その男性を助けようとするのですが・・・。
「耳を切れ」と命令し、その男性を助けるために小声で謝りながら、上半分を切ります。
事件後のインタビューでは
「切られるときに声を出したら同僚も殺されると思い、必死になってこらえた」
「よう思い切って(耳を)やってくれたなと。おかげで助かったんやで」
出典:産経ニュース
と話していました。
犯行動機は母親のため?
事件の流れだけを見るとあまりにも卑劣な犯行をしています。
ではその動機は何だったのでしょうか?
調べてみると、どうやら主な動機は「(知人への)借金の返済」だということが発覚しました。
ただそれだけが目的ではなかったようです。
母親の遺産として銀行強盗で得たお金を渡したかったことも判明しています。
これは事件中に母親が手紙を本人に送った時に分かりました。
「おふくろを楽にさせたかった」という気持ちを漏らしたそうです。
もちろんそんなことは認められないのですが、母を楽にさせたいという思いは本気だったみたいですね。
管理人コメント
もちろんそれが許されるわけではないのですが。
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